東京医科大学の入試不正問題に関する論点整理 ~理想的な大学入試制度~

   

東京医科大学の入試不正が発覚して以降、昭和大学も現役生と1浪生への加点や卒業生の親をもつ受験生の優遇を事前に開示することなく行っていたことが発覚しました。

事前に開示せずにこのような操作が行われたことは論外ですが、仮に事前に開示されていたとしたら、様々な議論がなされてもおかしくないと思われます。この問題を議論する際の論点の一つとして、この投稿では、そもそも大学入試制度としてどういった選抜方法をとるのが理想的/公平なのかについて考えてみたいと思います。

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理想的な教育制度とは?

目次

理想的な大学入試制度とは

優秀であるかどうかの判断が公平になされるというのは当然の前提として、「優秀」な受験生が合格するのが理想的な入試制度だと私は考えます。

そして、どういった受験生が「優秀」なのかを決める判断基準は大学が作るべきだと思います。というのも、大学はそれぞれ社会的使命を負っており、その使命を全うするために受験生を選別する判断基準を作るべきだと考えるのが自然だからです。

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大学の社会的使命の決定⇒選別の判断基準の決定⇒「優秀」であることの例

ここで、この一連の流れについて医学部を擁する大学の入試制度を例として考えてみたいと思います。

まず、この大学の社会的使命を「より多くの人を助ける」と定義してみます。「より多くの人を助ける」ためには、「優秀」な医者をより多く育てればよいことになります。予算には限りがあるためより多く育てるというのは大学の使命/目的から除外し、「優秀」な医者を育てるということが大学が目指すべき姿として考えてみます。

「より多くの人を助ける」という観点で「優秀」な医者とはどういった人のことを言うのでしょうか。

この場合の「優秀」の定義には様々な考え方があると思います。例えば以下の様な考え方が出来ます。

  • 医学を進歩させて新しい治療法が発見されれば大勢の命が救われます。この観点では研究者として「優秀」な人が適切だと言うことになります。筆記試験でいうと、高校で学ぶ勉強を3年間で獲得した現役生と、4年以上かけて獲得した浪人生とでは前者の方が「優秀」と言えるかもしれません。
  • 医療現場でより多くの患者を診ることが出来る医者も「優秀」と言えます。この観点では、若さも「優秀」という要素の一つになり得ます(例えば、18歳の受験生と50歳の受験生ではその後の寿命を鑑みて、医者になった後に患者を診られる年数が違うという意味)。
  • 学生の多様性が促進されると、「優秀」な学生が育つと言われています。医者の世界では女性の方が少ないことを鑑みると、女性であること自体で入学の選考過程で有利に扱うべきという考え方も出来ます。
  • 患者を診る際に心のケアも当然求められます。この観点では人柄も「優秀」という要素の一つになります。面接試験を課すことでこういった観点での選別を行っているのだと思われます。

 

アドミッション・ポリシーの決定方法

各大学によって社会的使命は異なるため、その判断基準も各大学の事情を良く分かっている大学自身が決めるべきだと考えられます。

一方で、大学に多くの権限を持たせすぎるとモラルハザードや差別等の問題が生じる恐れがあります。そのため、大学が作った判断基準(=アドミッション・ポリシー、入学者の受け入れ方針)は文科省等の機関から承認を得る手続きを取るのが現実的だと思います。

ここで、差別問題が生じていた事例としてテキサス大学のケースを紹介致します。1950年代のテキサス大学ロールクールでは、白人しか入学を許可されていませんでした。その理由として大学は「社会的使命」を主張していました。「ロースクールとしての使命はテキサス州の法曹界や法律事務所のために弁護士を養成することである。アフリカ系アメリカ人を雇うテキサスの法律事務所はない。そのため、大学の使命を全うするために白人にしか入学を認めない」というのが大学の言い分でした。

こういった事態を防ぐため、アドミッション・ポリシーは政府機関が承認する手続きが必要だと考えます。

 

「大学の使命」と「個人の利益」の対立

以上、大学が作った判断基準に合致した学生が合格すべきという考え方を紹介してきました。では、この判断基準に従ったために、筆記試験の点数が自分よりも低い学生が合格し、自分が不合格になったとして、しかもその理由が自分では変えようのない類のもの(例えば人種や性別)であった場合、これは公平な入試制度と言えるのでしょうか。

ここで、アメリカの事例を紹介します。シェリル・ホップウッド氏(Cheryl Hopwood)がテキサス州立大学法科大学院に対して起こした裁判事例があります。

テキサス大学は多様性等の観点からアファーマティブ・アクションを採用していました。白人のホップウッド氏は自分よりも成績(筆記試験の評価)の悪いマイノリティが合格したのに、自身が不合格とされたのは不当であるとして大学を訴えました。

自分の努力ではどうしようもない人種という要素で不合格にするのは不当であるというのがホップウッド氏の主張です。一方で、大学側としては社会的使命を果たすため(多様性を促進させるため)にマイノリティを合格させていると言えます(ご参考ですが、裁判結果はホップウッド氏の合格は認められないが、無料で再受験できるように大学に命じています)。どちらの主張も一定の合理性があります。

このように、「個人の利益」と「大学の使命」は対立する場合があります。特に自分の努力ではどうしようもない要素によって合否が判断される場合、それは差別にもなり得る話だと思います。このような場合、どちらを優先すべきなのでしょうか。私は「大学の使命」を優先すべきだと考えます。「大学の使命」を優先させることは国益につながると考えるからです。

 

最後に

以上見てきたように、理想的な大学入試制度は、「大学の社会的使命に沿った選抜基準」を満たした学生が合格する制度だと思います。

東京医科大学で行われていた不正行為は、大学の社会的使命と照らし合わせた際にどう整理されるのかについて、今後多くの議論がなされることを期待したいと思います。そうすることで入試不正が無くなり、理想的な大学入試制度の採用が促進されることを願っています。

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